散歩道で今年も烏瓜のお花を見かけました。
日中は花弁は開いていませんが夕方になりますと開いてしとやかな容
姿を観察できます。
田んぼも稲刈りが始まります。
ようやく暑さが和らいでくるようです。
岩槻の人形店もお盆が済みますと、雛人形の準備にいよいよ入ります。
小木人形でも2016年新作のおひなさま・飾り段・屏風など整いつつあります。
今年も11月初旬にかけて、雛人形の準備を進めてまいりますので、今しばらくお待ちくださいますようご案内申し上げます。
(岩槻工業団地内)
赤ちゃん授乳室完備
散歩道で今年も烏瓜のお花を見かけました。
日中は花弁は開いていませんが夕方になりますと開いてしとやかな容
姿を観察できます。
田んぼも稲刈りが始まります。
ようやく暑さが和らいでくるようです。
岩槻の人形店もお盆が済みますと、雛人形の準備にいよいよ入ります。
今年も11月初旬にかけて、雛人形の準備を進めてまいりますので、今しばらくお待ちくださいますようご案内申し上げます。
貝原益軒の「日本歳時記」にのる雛遊の図
立雛・座雛を対等に一畳台に飾られている。
菱餅らしきものが三宝に載せられ、御神酒や重箱、魚などが供えられている。
雛のかたちは、立雛と座雛に分類されます。
立雛は主として紙でつくられたので、一名紙雛とも呼ばれます。
立雛の方が歴史は古く、かたちから推察しても天児(あまがつ)、婢子からからきた男女一対の雛人形のようにみえます。
座雛は寛永(1624年)以後につくられたもので、抽象的な立雛に比べて写実的な彩りにつつまれています。
面白いのは、上巳の節句、雛遊と、雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたのが座雛であるということです。
しかし、座雛がつくられてすぐに立雛がなくなったわけではなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛は対等に飾られています。
そして享保以降は座雛が主、立雛が従となり次第に衰微をたどります。
雛市は享保(1716年)に開市されたものらしいといわれ、十間店(じっけんだな)は後に十軒店となった。
つまり、十間を限って出店が許され、場所は今の日本橋室町二丁目、三丁目にあたり、雛人形の集散地でした。
安永(1772年)頃には雛市は十軒店の外に尾張町(現在の中央区銀座一丁目)にも設置されています。
寛政(1789年)頃からは、浅草茅町、池之端仲町、麹町、駒込などにも雛市が開かれています。
十軒店が大変賑わい、華やかをみせたのは、ここでは匂うばかりの片はずしや、文金高髷(まげ)が見られ、あだものがが目白押しだったところから、見るは法楽とばかり物見高い江戸っ子が寄って、箱の人形が生きた雛と見比べるといったところから推して、ここは歓楽的境地の傾向をおびていったようです。
雛売
『乗物ほかい、雛の道具』と呼び歩く雛売
雛市にはそれが開かれている特定の場所まで会に行かなければならないのが、雛売りは移動販売の便利さと、比較的生活水準の低い人たちが利用したといわれます。
しかし明和(1764年)安永(1772年)に見られた雛売りも寛政(1789年)の頃には姿を見なかったといいますから、雛市におされてしまったものと思われます。
二月中旬から『乗物ほかい、雛の道具』と呼んで、葛籠を両掛にして、売りに来たものです。
人形は、おやま人形で、たけが4.5寸(約12cm)から、8.9寸(約24cm)までといいますからそれほどおおきなものでなく、内裏雛、小人形、雛の道具などが見られます。
五人囃子は天明(1781年)頃になって登場します。
雛人形の頭作り
京都で生まれた雛遊はあくまでも貴族生活の縮図でした。
京都の雛遊を江戸へもたらした一人に春日の局(かすがのつぼね)の名が見られます。
こうした雛遊が、そのまま民間に浸透していったという見方と、他方では民間で芽生えた信仰が地方色豊かに存在していて、そういう幸の神を祀るかたちは、必ず男女対の像があって、婚姻、安産、育児の祈願の対象となっているのが、ひな祭りに転化されたという見方があり、それぞれの根拠がありますが、ここでは割愛して、お話を進めます。
京都の雛遊が民間で芽をふいているのは江戸よりはやいのではないかといわれるのは、雛人形の工作舎が宝暦(1751年)まで江戸に少なく、京都が独占していることからです。
京都から江戸へ雛遊が移入され、民間でも三月三日に定期的に行うようになったのは、大体寛永の末期頃(1640年)といわれております。
そして雛遊からひな祭りという呼び方に変わったのは享保(1716年)以前と言われていますから、江戸に移入してからもかなりの間雛遊と呼ばれていたわけです。
江戸風俗の中で、特に取り上げたいのが雛売りと雛市です。
ジャンボ雛段
おひなさま十五人がそのままのお姿です。
小雨の降る中に岩槻まつりが開催されました。
岩槻まつり恒例の黒奴行列・人形仮装パレード、ジャンボ雛段はもちろん大勢の見物
で賑わいました。
お子様の仮装はとっても可愛いです。
雛人形七段飾り
ひな祭りの風習が一般庶民に浸透されたのは、江戸時代中期以降
雛遊(ひいなあそび)が教えるもの上巳の祓とは別に雛遊という人形を持って遊ぶ児戯があります。
これを『ひいなあそび』とよんでいます。
これについて本居宣長は、ちいさく造ってあるので鳥のひなに例えて雛というと、言っておりますが、もともと京都が発祥地で、『ひいな』は京都の鉛とする方が自然のようです。
雛遊びが初めて史書に登場したのは、大人を対象としたもので、貴族の遊びに見られます。
これが子供の世界に広まったのは、かなり早いようです。
この雛遊びがひな祭りに発展していったとみる根拠は、ひな祭りの人形が、ひいなあそびのひいなが進化したものと見られることにあります。
また雛遊が単なる子供の『ままごと遊び』と違うところは、必ず男女対の人形を使っていることで、夫婦の純潔の道徳を心に植えつけ、雛道具は、婦女子の世帯の教訓、嫁入り道具を意識したものと言われています。
天児(あまがつ)
「天児」はT字形に組み白絹製の頭の部分をつけ、祓いに用いられる人形の一種。平安時代からある。
これに赤ちゃんの産着などの衣装を着せて゛けがれ゛のお祓いの形代(カタシロ)としました。
大きな河川も、その源を訪ねると、いくつもの小さな流れがあって、そのいくつもの流れが合流して、次第に形をなして遂には一つの大きな流れとなります。
歴史の流れも同じで、ひな祭りの源も、いろいろの神事、行事、信仰があって合流したものです。
ひとつに『巳の日の祓』がありました。
巳の日祓とは三月の巳の日に行なう祓いのことで、撫物(なでもの)でからだを浄めて、河原に出て祓いを行うことをいいます。
撫物(源氏物語、須磨の巻に登場)は、紙を切って作ったもので人のかたちをした、人形(ひとがた)、形代(かたしろ)とよばれるものです。
のちに撫物の変形としてつくられたものに、天児(あまかつ)、婢子(ほうこ)があります。
両方とも小児誕生の時につくられるもので、幼児を襲う穢れ(けがれ)や、災いを負わせるための形代で、男女の別なく、天児は主として宮中で、婢子は民間で使われていたようです。
これが後の立雛によく似ているところは、見落としできません。
こうして人形に穢れや災いを負わせ風習が、現在も行われています。
鳥取県の流しびなが有名ですが、人形のまち岩槻でも毎年行われています。
上巳の祓を三月のはじめの巳の日と決めて不祥をはらうことは、前にも述べましたが、これを三月三日という一定の期日に決めた最初は不明ですが、持統天皇の五年(691年)には上巳を三月三日としている文献があります。
つまり上巳の節句の始まりです。
「夏の大三角」
伝統的七夕の星空
天の川を挟んで織姫星と彦星、そして上弦に近い月が輝きます。
「わし座」の一等星アルタイルは「彦星」
「こと座」の一等星ベガは「織姫星」
天の川の真ん中で明るく光っている星が、「はくちょう座」の一等星デネブです。
七夕は『乞巧奠(きっこうでん)』巧みを乞う奠(たくみをこうまつり)で織物や針仕事を上手になりたいと願う中国の星まつりの行事が日本に伝わり宮中の行事となって彦星・織姫星にお供え物をして、技芸の上達を祈りました。
2015年は8月20日を中心に「明かりをけして 星をみよう」をスローガンに掲げてキャンペーンを展開します。
関東の方は何か、昔の内裏雛は向かって右が男雛、左が女雛なのに、今は雛飾りは反対に飾られていると思いませんか。
日本には昔から左尊右卑の思想がありました。
左大臣は右大臣より上位にあり、将軍、大名の御座所で、殿様は左に奥方は右にならぶのは、テレビなどで良く見かけると思います。
内裏雛の並べ方もそのため上記のようでしたが、昭和初年になって御真影(天皇さま・皇后さまのお写真)が向
かって左に天皇さま、右に皇后さまをかかげたので、同じようにしてはどうかという意見がでました。
そこで昭和初年、東京雛人形卸組合が、今後、内裏雛は御真影と同じく、向かって左に男雛、右に女雛と統一することを決めたのが、今日に至っています。
したがって昭和以前の雛飾りは、今と逆の並べ方で飾られているところもあります。
特に関西方面では昔のしきたりそのままを飾っている所が多いようです。