雛人形(おひなさま)

桃の節句 ひな祭りの意義

ひな祭り(桃の節句)はおひなさまをかざり、女の子の健やかな成長を祈る行事です。

ひな祭りには雛人形を飾ります。

雛段飾りは江戸時代から、天皇だけが着ることができる明るい黄土色の衣装。ひな祭りが広がるにつれて、各地の大名が、また、裕福な町民も加わり、ひな人形を見合わせるなとの「雛遊び」が生まれました。


 

おこさまの笑顔はひな祭りから生まれます。

雛人形をご家族でお飾りされる楽しみの中から桃の節句(ひな祭り)の意味を知って頂くため、皆様ご活用ください。

ひな祭りには雛人形が教えてくれた、家族のやさしさがあります

季節も変わり早春の頃、私も[おひなさまを飾って」と祖母にせがめば、いつも笑って「一緒に後で飾ろう」と言ってくれたものです。その祖母の笑顔にホットしました。

そんな家族の思いやりの心を大切に考え、凝った素材が作る良質、上品な雛人形を数多くご用意いたしております。

是非一度ご高覧いただきますようご案内申し上げます。

ご存じですか?「おひなさま」を飾る意義

おひなさまを飾るひな祭りは、家庭で行う小さなお祭りです。赤い毛氈などで神聖な場所をつくって、赤ちゃんを守ってくれるおひなさまを飾り、お供え物をして願い事をします。

『健やかに育ち、将来、幸せな結婚ができますように』と。

 

ひなまつりの源流は、古代中国で、季節の変わり目などに健康を願って厄ばらいをしていたことにあります。日本でも平安時代以前からこれにならって、三月のはじめに「ひとがた」(人の形を象徴的にかたちづくったもの)に自分の罪けがれを託して流すことが行われました。やがてこれに貴族の子どもたちの間で日常的に行われていた「ひいな遊び」(人形遊び)が結びつき、三月三日に人形で遊ぶ習慣がうまれました。

 

江戸時代になって、人形がだんだんと発達して工芸的に立派なものが作られるようになると、男女一対の人形を「おひなさま」と尊んで、三月三日にこれを飾り、季節の食べ物などをお供えして女性たちが無事健康に過ごせることを願うようになりました。また、おひなさまのお祭りという意味から、その日を「ひなまつり」とも呼び、さらに江戸時代中期以降は、女の子の誕生を祝い、その健やかな成長と将来の幸せを祈る風習もうまれました。これは男女一対のおひなさまの美しく仲睦まじい姿に女の子の幸せな結婚を重ね合わせたものでしょう。その高貴な姿やきらびやかなお道具の数々にも、女の子の幸せな人生を願う気持ちと豊かな生活へのあこがれが込められているのです。

 

こうして、厄を祓うひとがたに始まりながらも、美しく完成されていったおひなさまは、時代とともに一人一人の女の子の幸せを叶えてくれる、その女の子の守り神のような存在となりました。お子様が毎年、おひなさまに親しく触れれば、おのずとその恩恵をいただけることでしょう。

おひなさまは、生まれたばかりの女の子に対する、周りの人たちのあたたかな思いをかたちにしたもの。誕生をこころから喜び、健やかな成長と将来の幸せを願う「予祝よしゅく」すなわち「未来予想図」そのものなのです。

日本人形協会 資料より

 

雛を訪ねて400年

ひな祭りの源も色々な神事・行事、信仰があって合流したものです。

一つに『巳の日祓みのひのはらい』があります。

巳の日祓とは三月の巳の日に行なう祓のことで、撫物なでもので身体を浄めて、河原に出て祓を行うことを言います。

(源氏物語、須磨の巻に登場)撫物は、紙を切って作ったもので人のかたちをした人形ひとかた、形代かたしろと呼ばれるものです。

後に撫物の変形として天児あまがつ這子ほうこがあります。

 

撫物 天児・這子(婢子)

人形のまち岩槻 岩槻人形博物館所蔵 「天児・這子」


 

両方とも小児誕生時に作られるもので、幼児を襲う穢れや災を負わせるための形代で、男女の区別なく、天児は主として宮中で、這子は民間で使われていたようです。

これが後の立雛によく似ているところは、見逃せません。

こうして人形に穢れや災を負わせる風習が各地の流しびなです。

 

人形のまち岩槻 流しびな

人形のまち岩槻流しびな 3月3日直前の日曜日に開催します。子どもたちの無病息災を、ひな人形の原型とも伝わる「さん俵」に託して池に流す春の風物行事で、ひな祭りのルーツともいわれています。


雛遊ひいなあそび

大人を対象として、貴族間などに見られます。

この雛遊びが子供の世界にかなり早く広まり、雛遊びが雛祭りに発展していったとみられる根拠は、雛祭りの人形が、ひいなあそびのひいなが進化したものと見られることにあります。

雛遊びが単なる「ままごと遊び」と違うところは、必ず男女一対の人形を使っていることで、夫婦の純潔の道徳を、雛道具は嫁入りを意識したものと言われます。

3月3日の上巳の祓と、雛遊びが結びついて、雛祭りとなります。

雛祭りは泰平の世を迎え、武家や公家の風習は町人にも伝わり、町のひな祭りが次第に派手になった。

江戸の風物詩の一つの『雛市ひないち』は、17世紀の終わり頃には町に現れていた。

江戸風俗の雛売・雛市

 

雛売りは移動販売の便利さと、比較的生活水準の低い人が利用したといわれます。

『乗物ほかい雛の道具』と呼んで、葛籠を両掛けにして売りに来たものです。

明和(1764年)安永(1772年)にみられた雛売りも寛政(1789年)の頃には雛市に押され姿を消したといわれます。

雛市は享保(1716年)に開市されたものらしいといわれ、十間店じっけんだなは後に十軒店となりました。

つまり十間を限って出店が許され、場所は日本橋室町二丁目、三丁目にあたり雛人形の集散地でした。

 

江戸時代 十軒店

 

立雛から座雛へ

雛の形は、立雛と座雛に分類されます。

立雛は紙雛とも言われるように主として紙で作られたのです。

かたちから推測して、天児、這子からきた男女一対雛人形のように見えます。

 

座雛は寛永(1624年)以後に作られたもので、抽象的な立雛に比べて、写実的な彩りに包まれています。

面白いのは、上巳の節句、雛遊びと、雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたのが座雛であるということです。

しかし、座雛が作られてすぐに立雛がなくなったわけでもなく、享保(1716年)までは立雛と座雛が対等に飾られています。

そして、は座雛が主、立雛が従となり次第に衰微をたどります。

 

次郎左衛門頭立雛・次郎左衛門頭座雛

座雛の江戸工芸美

座雛が技術的に完成の域に達したとみられるのは次郎左衛門雛でしょう。

延享(1744年)に作られたもので、京都の岡田姓菱屋次郎左衛門の創案によります。

次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引き目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。

男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけます。

女雛は、五衣いつつぎぬ・唐衣からぎぬに裳もすそをはいています。

次郎左衛門雛の衰退は、江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。

古今雛が従来の雛と違う点は、鳳凰や薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子べにりんずを用いて色彩を豊かにしたこと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写実的に精妙を究めた点があります。

 

江戸古今雛 岩槻人形博物館所蔵

岩槻人形博物館所蔵 18世紀後半に江戸で生まれた古今雛は、江戸時代後期に全国的に流行し、現在の雛人形につながる様式を生み出した。 岩槻人形博物館館内説明文より


 

雛に出された奢侈取締令

奢侈しゃし取締令は、士農工商という身分差別をつけて、商人を一番低い身分に置いたが、泰平の世が続くと、商人は財を貯え奉公人を多くかかえ、社会における隠れた支配力を持つようになってくる。

当然これに目をつけるのは徳川幕府の政策で、民間のぜいたくを取り締まるおふれを度々出した。

着るもの、持ち物、遊興に至るさまざまなものに対してである。

  奢侈取締令が雛に適用されたのは最初は慶安2年2月(1649年)今から約3百年前のことである。

民間の美化的傾向を取り締まったものだが、徳川家からの注文品は例外としている。

つまり民間にかぎっている。

 この時の対象は雛道具であった。人形にはまだそれほど高価で目に余るものはなかったようである。しかし道具には豪華絢爛、金をかけたものが多く作られた。現在の雛道具よりもずうっと種類も多く、成功なミニチュアであった。金持ちの商人の娘が大名の姫君と同じようなものを作って飾っていたのでは具合がよろしくないというので摘発したのだろう。

 寛文3年(1663年)元禄17年(1704年)享保6年(1721年)と取締令は四回出されているが、享保の時が最も厳しかった。それまでの取締令が、どちらかというと、ザル法で一時的にハイを追うような結果に終わっているのに対し、享保の取締は徳川吉宗自ら範をたれるというので、一切まかりならないという厳しいものであった。

 一例をあげると、ひな人形の寸法は八寸(約30cm)以下とし、雛道具も黒塗りだけで、これに蒔絵をかいたり、金銀の金物を使っていけないということなどがある。