五節句とは季節の節目に当たる日で、一年に五回の節句を祝う
五節句とは、江戸時代に幕府によって制度が定められました。
一月七日=人日の節句(七草の節句)
三月三日=上巳の節句(桃の節句)
五月五日=端午の節句(菖蒲の節句)
七月七日=七夕の節句(星まつり)
九月九日=重陽の節句(菊の節句)
特に三月三日の「上巳の節句」、五月五日の「端午の節句」は子供の祝いとして発展し、雛人形や五月人形を飾って楽しむ賑やかな祭りになりました。
五節句とは、江戸時代に幕府によって制度が定められました。
一月七日=人日の節句(七草の節句)
三月三日=上巳の節句(桃の節句)
五月五日=端午の節句(菖蒲の節句)
七月七日=七夕の節句(星まつり)
九月九日=重陽の節句(菊の節句)
特に三月三日の「上巳の節句」、五月五日の「端午の節句」は子供の祝いとして発展し、雛人形や五月人形を飾って楽しむ賑やかな祭りになりました。
我が子の誕生に古今雛と五人囃子を雛段に飾り愉しんだとされます。
現代でも五人囃子を取り入れた三段飾りのひな人形は人気です。

【商品番号】京十番親王芥子官女・五人囃子付
焼桐三段飾り No3010C
【サイズ】間口80cm×奥行85cm高さ83cm
親王様は臥蝶の丸の有職文様の気品高い衣装です。
五人囃子は蜀江文様で全体を引き締めた飾り方になっております。

昔々、三月のはじめての「巳の日」にお祓いをしたことからはじまったの。
日本でも今から千年ぐらい前のお話にも出てくる行事で、このお祓いの日には皆が川原に出て、人間の形に切り抜いた紙 ヒトカタ(人の形を象徴的にかたちづくったもの)で体中を撫でて、病気や穢れをこの紙にうつして、川に流しました。
やがてこれに貴族の子どもたちの間で日常的に行われていた「ひいな遊び」(人形遊び)が結びつき、三月三日に人形で遊ぶ習慣がうまれました。

江戸時代になって、人形がだんだんと発達して工芸的に立派なものが作られるようになると、男女一対の人形を「おひなさま」と尊んで、三月三日にこれを飾り、季節の食べ物などをお供えして女性たちが無事健康に過ごせることを願うようになりました。
赤い毛氈などで神聖な場所をつくって、赤ちゃんを守ってくれるおひなさまを飾り、お供え物をして願い事をします。
泰平の世が続くと、士農工商という身分差別をつけて、商人を一番低い身分に置いたが、商人は財を貯え奉公人を多くかかえ、社会における隠れた支配力を持つようになってくる。
奢侈しゃし取締令は、当然これに目をつけるのは徳川幕府の政策で、民間のぜいたくを取り締まるおふれを度々出した。
この時の対象は雛道具であった。
道具には豪華絢爛、金をかけたものが多く作られた。現在の雛道具よりもずうっと種類も多く、成功なミニチュアであった。金持ちの商人の娘が大名の姫君と同じようなものを作って飾っていたのでは具合がよろしくないというので摘発。
奢侈取締令が雛に適用されたのは最初は慶安2年2月(1649年)今から約3百年前のことである。
民間の美化的傾向を取り締まったものだが、徳川家からの注文品は例外としている。
つまり民間にかぎっている。
人形にはまだそれほど高価で目に余るものはなかったようである。
寛文3年(1663年)元禄17年(1704年)享保6年(1721年)と取締令は四回出されているが、享保の時が最も厳しかった。
それまでの取締令が、どちらかというと、ザル法で一時的にハイを追うような結果に終わっているのに対し、享保の取締は徳川吉宗自ら範をたれるというので、一切まかりならないという厳しいものであった。
一例をあげると、ひな人形の寸法は八寸(約30cm)以下とし、雛道具も黒塗りだけで、これに蒔絵をかいたり、金銀の金物を使っていけないということなどがある。

川越とともに岩槻は城下町で、三代将軍徳川家光が東照宮の造営に当たりますが、岩槻は地理的に江戸から日光へおなり街道に出た最初の宿場町であり、江戸にとってはノド首に当たり重要視されておりました。
日光東照宮の造営は寛政元年に始まり寛政十三年に終わりましたが、その間全国から集まる工人も多く、木材などの資材を運搬する人馬の往来で賑わいました。
完成後も参拝の客はあとをたたず、『日光を見ずして結構と言うなかれ』と言われるほど名所になります。
なんねんかごとに行われる東照宮の修築の際には、全国から有名無名の工品が沢山集められ、地方都市には珍しく人々の交流が盛んでした。

東照宮の造営や修築にたずさわった工匠たちが、江戸への帰途、あるいは東海、近畿その他遠地への帰途に立ち寄った。
いろいろな事情から岩槻に居ついてしまい、関東一円は桐の産地で、桐の集積は容易であったことから、職人にもこと欠くことがンく、陸路だけでなく、綾瀬川を利用して江戸まで桐製品を送り込まれ、この水上交通は明治、大正のころまで続きました。
桐製品を作る時には相当なが出る。
このおが屑は後に岩槻を大きく変貌させて日本第一位の人形生産地にのし上げます。
京都で生まれた雛遊はあくまで貴族社会の縮図
京都の雛遊を江戸へもたらした一人として春日局と言われます。
太平の世になると、武家や公家の風習は町人にも伝わり、町の雛祭りも派手になります。
京都から江戸へ雛遊が移入され、民間でも三月三日に定期的に行なうようになったのは、大体官営の末期頃(1640年)と言われております。

雛売
雛市とは違って移動販売の便利さがあったようです。雛売りも寛政(1789年)には雛市におされてしまいました。
2月中旬から「乗り物ほかい、雛の道具」と呼んで、葛籠を両掛けにして、売りに来たものです。
雛市
享保(1716年)に開市されたたものらしいといわれ、十間店は後に十軒店となりました。
場所は今の日本橋室町二丁目、三丁目にあたり
次郎左衛門雛の衰退は、江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。
古今雛が従来の雛と違う点だけ取り上げますと、衣裳に金糸、色糸を使って、鳳凰や薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子を用いて色彩を豊かにしたことと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写生的に精巧を極めた点などがあります。

岩槻人形博物館所蔵

岩槻人形博物館所蔵
上級の武家や伝統を重んじる公家などでは、長く重用されました。
次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引き目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。
男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけます。
女雛は、五衣・唐衣に裳すそをはいています。
「立雛」は主として紙で作られたもので、一名「紙雛」とも呼ばれます。

立雛の方が歴史は古く、形から推察しても天児・這子からきた男女一対の雛人形のように見えます。
きわめてシンプルな形で、厚紙で胴体をなし、そこへと桐塑頭・木で作られた頭を差し込み、面相を整え髪つけをしたものです。
神社のお祓いに使われるヒトカタの様か姿になっています。
立雛は屏風や雛段に立てかけて飾ります。

岩槻人形博物館所蔵
座雛は寛永(1624年)以後に作られたもので、抽象的な立雛に比べて、写実的な彩りにつつまれています。
面白いのは、上巳の節句、雛遊と雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたものが座雛であるということです。
しかし、座雛がつくられてすぐに立雛が無くなった訳でなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛が対等に飾られています。
そして享保以後は飾り易く安定感のある座雛が主、立雛が従となりました。
中国では昔3月3日に水辺にて身を清め、穢れ(けがれ)を祓う習慣がやがて日本にも伝わつたもので、桃花節とも言われました。
この‘巳の日祓い’をいつからか三月三日として行うようになりました。
持統天皇の五年(691年)には上巳を三月三日としている文献があります。
こうして三月三日にお雛祭りをするのは、お祓いの行事との関わりの有る事を知ることが出来ます。
人形、形代とは人、動物などを模した形を形取り、それに病気や穢れ、悪いものを移して身代わりになってもらうもののこと。
源氏物語、須磨の巻にある千年ぐらい前のお話しに出てくる行事で、光源氏が海辺に出て陰陽師(占い師)により祓いをし、紙を切って人の形に作り、その紙で体中をなでて、病気やけがれをこの紙の人形に移して、船に人形を載せて他界に流したとされています。