雛人形の歴史 約3百年前徳川家からの注文品は例外とし雛道具に奢侈取締令ー雛人形・五月人形は人形まち岩槻 小木人形ー

着るもの、持ち物、遊興に至るさまざまなものに対して奢侈取締令を雛人形も例外ではない

 

泰平の世が続くと、士農工商という身分差別をつけて、商人を一番低い身分に置いたが、商人は財を貯え奉公人を多くかかえ、社会における隠れた支配力を持つようになってくる。

奢侈しゃし取締令は、当然これに目をつけるのは徳川幕府の政策で、民間のぜいたくを取り締まるおふれを度々出した。

この時の対象は雛道具であった。

道具には豪華絢爛、金をかけたものが多く作られた。現在の雛道具よりもずうっと種類も多く、成功なミニチュアであった。金持ちの商人の娘が大名の姫君と同じようなものを作って飾っていたのでは具合がよろしくないというので摘発。

奢侈取締令が雛に適用されたのは最初は慶安2年2月(1649年)今から約3百年前のことである。

民間の美化的傾向を取り締まったものだが、徳川家からの注文品は例外としている。

つまり民間にかぎっている。

 

人形にはまだそれほど高価で目に余るものはなかったようである。

寛文3年(1663年)元禄17年(1704年)享保6年(1721年)と取締令は四回出されているが、享保の時が最も厳しかった。

それまでの取締令が、どちらかというと、ザル法で一時的にハイを追うような結果に終わっているのに対し、享保の取締は徳川吉宗自ら範をたれるというので、一切まかりならないという厳しいものであった。

一例をあげると、ひな人形の寸法は八寸(約30cm)以下とし、雛道具も黒塗りだけで、これに蒔絵をかいたり、金銀の金物を使っていけないということなどがある。

 

岩槻人形博物館 『紫檀象牙細工蒔絵雛道具 江戸時代』

 



 

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よくある質問 どのようにして岩槻人形の起こったのですか? ー雛人形・五月人形は人形専門店 埼玉県 岩槻 小木人形ー

岩槻は人形のまち、城下町として有名になっています。

川越とともに岩槻は城下町で、三代将軍徳川家光が東照宮の造営に当たりますが、岩槻は地理的に江戸から日光へおなり街道に出た最初の宿場町であり、江戸にとってはノド首に当たり重要視されておりました。

日光東照宮の造営は寛政元年に始まり寛政十三年に終わりましたが、その間全国から集まる工人も多く、木材などの資材を運搬する人馬の往来で賑わいました。

完成後も参拝の客はあとをたたず、『日光を見ずして結構と言うなかれ』と言われるほど名所になります。

なんねんかごとに行われる東照宮の修築の際には、全国から有名無名の工品が沢山集められ、地方都市には珍しく人々の交流が盛んでした。

  岩槻にすぎたるものが二つある  児玉南柯と時の鐘

歴史と人形のまち岩槻 宿場町 御成街道

東照宮の造営や修築にたずさわった工匠たちが、江戸への帰途、あるいは東海、近畿その他遠地への帰途に立ち寄った。

いろいろな事情から岩槻に居ついてしまい、関東一円は桐の産地で、桐の集積は容易であったことから、職人にもこと欠くことがンく、陸路だけでなく、綾瀬川を利用して江戸まで桐製品を送り込まれ、この水上交通は明治、大正のころまで続きました。

桐製品を作る時には相当なが出る。

このおが屑は後に岩槻を大きく変貌させて日本第一位の人形生産地にのし上げます。

 

 



 

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雛人形の歴史 江戸の風物詩 『雛市』は17世紀終わりに現れる=小木人形 埼玉県 さいたま市 岩槻=

雛遊という呼び方から雛祭という呼び方に変わるのは享保(1716年)以前

 

京都で生まれた雛遊はあくまで貴族社会の縮図

京都の雛遊を江戸へもたらした一人として春日局かすがのつぼねと言われます。

太平の世になると、武家や公家の風習は町人にも伝わり、町の雛祭りも派手になります。

京都から江戸へ雛遊が移入され、民間でも三月三日に定期的に行なうようになったのは、大体官営の末期頃(1640年)と言われております。

江戸風俗の雛売・雛市

 

雛売

 雛市とは違って移動販売の便利さがあったようです。雛売りも寛政(1789年)には雛市におされてしまいました。

2月中旬から「乗り物ほかい、雛の道具」と呼んで、葛籠を両掛けにして、売りに来たものです。

雛市

 享保(1716年)に開市されたたものらしいといわれ、十間店じっけんだなは後に十軒店じっけんだなとなりました。

場所は今の日本橋室町二丁目、三丁目にあたり

 



 

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雛人形の歴史 江戸で生まれた豪華絢爛な座雛『古今雛』=小木人形 埼玉県 さいたま市 岩槻 人形専門店=

『古今雛』は江戸町人が作り上げた雛人形

 

次郎左衛門雛の衰退は、江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。

古今雛が従来の雛と違う点だけ取り上げますと、衣裳に金糸、色糸を使って、鳳凰や薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子べにりんずを用いて色彩を豊かにしたことと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写生的に精巧を極めた点などがあります。

 

雛人形の歴史 古今雛

岩槻人形博物館所蔵




 

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雛人形の歴史 座雛が技術的に完成へと『次郎左衛門雛』=小木人形 埼玉県 さいたま市 岩槻 人形専門店=

『次郎左衛門雛』は京都の岡田姓菱屋次郎左衛門が作り始めたとされています。

雛人形の歴史 次郎左衛門雛

岩槻人形博物館所蔵


上級の武家や伝統を重んじる公家などでは、長く重用されました。

 

次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引き目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。

男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけます。

女雛は、五衣いつつぎぬ・唐衣からぎぬに裳すそをはいています。

 



 

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雛人形の歴史 立雛から座雛へうつる時代背景ー雛人形・五月人形は人形専門店 埼玉県 岩槻 小木人形ー

雛のかたちは、立雛と座雛に分類されます。

 

「立雛」は主として紙で作られたもので、一名「紙雛」とも呼ばれます。

天児・這子 雛人形の始まりの一つ

 

立雛の方が歴史は古く、形から推察しても天児あまがつ・這子ほうこからきた男女一対の雛人形のように見えます。

 

 

きわめてシンプルな形で、厚紙で胴体をなし、そこへと桐塑頭・木で作られた頭を差し込み、面相を整え髪つけをしたものです。

神社のお祓いに使われるヒトカタの様か姿になっています。

立雛は屏風や雛段に立てかけて飾ります。

 

雛人形の歴史 紙雛 立雛

岩槻人形博物館所蔵


 

座雛は寛永(1624年)以後に作られたもので、抽象的な立雛に比べて、写実的な彩りにつつまれています。

面白いのは、上巳の節句、雛遊と雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたものが座雛であるということです。

しかし、座雛がつくられてすぐに立雛が無くなった訳でなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛が対等に飾られています。

そして享保以後は飾り易く安定感のある座雛が主、立雛が従となりました。



 

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