いろはかるた 『 て 』 歴史のまち岩槻 岩槻城

歴史と人形ののまち岩槻 岩槻城

岩槻城落城の伝説

天正十八年(1590)、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げるため関東に攻め込みました。

そして敵対する岩槻城へは徳川家康の部下の一隊が兵数約一万三千をもって攻め寄せてきました。

しかし、そのとき岩槻城主太田氏房は、豊臣軍による小田原城攻撃に備えるため兵を大勢率いて小田原に赴き、城を留守にしていました。歴史と人形のまち岩槻 岩槻城と小田原城

岩槻城攻撃の大将本多忠勝は花積台(春日部市)に櫓を組み城内を偵察したところ、鎧兜に実を固め来攻を待ち構えている多数の武士の姿が見えました。

ところが、たまたま飛んできた一羽の烏からすが一人の鎧武者に止まったため、これは本物の城兵ではなく防備が手薄のため藁人形を鎧武者に仕立てたものなのだと見破られてしまいました。

攻撃側は直ちに城を攻め落とそうと辻村(大字南辻)の鎮守八幡神社境内で甲冑を付けて岩槻城討ち入りの用意をしました。

しかし、攻撃の準備は整ったものの目の前には水かさを増した荒川がものすごい勢いで流れていて、渡れそうにありません。

どうしたらよいものかと思案にくれていたところ、白髪、白装束の老人が白馬にまたがり、荒波をけたてて対岸の久伊豆神社の森に消えていったのです。

「浅瀬があるぞ。あそこで川を渡るのだ」と直ちに命令が下されました。

綾瀬を通って攻め入った大勢の豊臣軍の前に岩槻城は攻め落とされてしまいました。

老人が渡った所は、万一に備え岩槻城の兵が避難する道として川底に石を敷き詰めて作っておいたものでした。

実は綾瀬を渡った白髪の老人は辻の八幡大菩薩で、豊臣軍の来週を岩槻城に知らせるため元荒川を渡ったものでした。

しかし、そのことが逆に仇となり、敵を導き入れることになってしまったということです。

 

     < 引用資料  いわつき郷土文庫 第2集  岩槻市教育委員会 >

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9月7日 二十四節気 『白露』

秋分の日の十五日前にあたります『白露はくろ』夏から秋へ移り変わります。

草木に露が宿り秋の気配漂うこのころから季節の深まりを感じます。

七十二候

  • 草露白そうろしろし人形のまち岩槻 小木人形 二十四節気『白露』

草に落ちた露が白く光る

  • 鶺鴒鳴せきれいなく

セキレイが鳴きはじめる

  • 玄鳥去げんちょうさる

ツバメが南を指して去って行く

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歴史のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音② 鉄燈籠

歴史と人形のまち岩槻 慈恩寺観音 伊達房実寄進 鉄燈籠

岩槻(付)城主太田氏房の家臣、伊達与兵衛房実が天下泰平万民豊楽、岩槻城安泰祈願のため天正十七年(1589)寄進したものである。

市指定有形文化財

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いろはかるた 『 て 』 歴史のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音

歴史と人形のまち岩槻 華林山 慈恩寺観音

慈恩寺観音は小木人形から車で5分の所にあります。

慈恩寺観音は坂東三十三ヶ所観音霊場の十二番札所でもあり、多くの観光客が訪れます。

慈覚大師と慈恩寺

あるとき、慈覚大師が日光二荒山で「東国で仏教をひろめるにふさわしい霊場を示した前」と祈り、李すももを空高く投げ上げました。

すると紫色の雲がそれを取り巻いて東南の方角へと飛び去っていきました。

慈覚大師が李の飛んでいった東南の方角へ旅して行くと、とある広い野原に一人の老人が突然現れ、「私は長い間大師をお待ちしておりました。ここは仏の教えを広めるのに最適の地です。

是非ともここにとどまり、仏教を広めてください」と懇願しました。

慈覚大師が老人と初めて会った場所は、逢山あいやまの原(相野原あいのはら)と呼ばれるようになりました。

慈覚大師が老人に言いました。

「私は寺を立てて仏教を広める土地を求め、方々を歩いています。

もし私が探し求めている印がなければ、残念ですがこの地に寺を建てることはできません」

すると老人は「実は不思議なことが一つございます。私の家の近くに、わずか一夜のうちに李の木が生え、花が咲いている所があるのです」と言いました。

それを聞いた慈覚大師は大変喜び「私が寺を建てるべき土地はまさにこの地です。

ここに寺を建てましょう。そして李の木を寺の木といたしましょう」と老人に言いました。

念願がかない寺を寺を建てることができた慈覚大師は、寺の境内、建物そして家に至る

までありとあらゆる場所に李の木を植えました。

李の花に埋め尽くされたこの寺は山号が華林山かりんざん(花林山)となりました。

そして、この地の一帯が慈覚大師の修行した唐の大慈恩寺ににていることから、寺の名を慈恩寺と定めたということです。

 

歴史と人形のまち岩槻 慈恩寺観音

 

引用資料 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会

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いろはかるた 『 あ 』 人形のまち岩槻と綾瀬川 

岩槻は人形のまちとして有名です。

岩槻の人形を昔は水量も豊かななことから岩槻の町を流れる綾瀬川を利用する方法がとられました。

東京の隅田川に通じていたことから、荷船に積んで隅田川に出ると、柳橋に舟を横付けにして荷上げをするのです。

また、他の方法では、陸路で車力によって運んだが、当時飛脚と呼ばれる運送業者がいて、一日がかりで浅草橋あたりの人形問屋まで往復しました。

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いろはかるた 『 と 』 歴史のまち岩槻 岩槻城 太田道灌

歴史と人形のまち岩槻 岩槻城と太田道灌

岩槻城 築城の伝説

岩槻城を築城したとも言われる太田道灌は、城づくりの名人といわれています。

太田道灌は、関東管領扇谷上杉定正かんとうかんれいおおぎがやつうえすぎさだまさに仕え、天文・地勢に詳しく、軍事にも明るいまさに文武を鐘早苗他有能な武将でした。

あるとき道灌は「東に荒川が流れ、西に奥州に通ずる道があり、南には広大な田畑、そして北は見渡す限りの原野が広がる岩槻に築城すれば必ずや名城と呼ばれるような城となることは間違いない」と確信し、岩槻城の築城を決意していましたが一つ問題がありました。

それは、白を構えようとした場所に大きな沼があり、埋め立てが容易なかろうということでした。

いかにすれば沼を埋め立てて築城できるの歴史と人形のまち岩槻  白鶴城か。道灌は思案に暮れる日々を送りました。

そんなある日、枯れ枝をくわえた一羽の白い鶴がいずこからともなく飛んできました。

鶴は枝わ沼に落とし、その上に止まって羽を休めたのです。

道灌はこれを見て悟りました。

「岩槻に城をきずくには、あの鶴の知恵を借りればよいのだ。」

道灌は数千人の人夫を動員し近くの山林から木や竹をきりだしました。そしてそれらを束ねて数万もの筏いかだを作り沼に浮かべ、その上に土を乗せました。

沼地は平地へと生まれ変わり、新しくできた土地に道灌は堅固な城を築き上げることができたのです。

こうしてできた岩槻城は、別名白鶴城とも竹束城たけたばとも呼ばれるようになったということです。

 

     < 資料引用  いわつき郷土文庫 第2集  岩槻市教育委員会 >

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いろはかるた 『 き』 時の鐘

歴史と人形のまち 岩槻 時の鐘

岩槻の『時の鐘』は、四里四方に響きわたっていたといわれ、「岩槻にすぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」とうたわれるほど岩槻の人々の誇りになっています。

県内には川越や行田にも再鋳された鐘はありますが、岩槻の「時の鐘」が最も古いものです。

 

岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。

渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。

50年後の享保五年(1720)、鐘にひびがはいったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。人形のまち岩槻 時の鐘

鐘は一日三回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、一日十二回撞かれていたようです(『新編武蔵国風土記稿しんぺんむさしのくにふどきこう』他)。

鐘楼は、嘉永六年(1853)に岩槻藩により改建されており

(棟札銘むなふだめい)、

方13.1メートル、高さ2.1メートルの塚の上に立っています。

 

 

歴史と人形のまち岩槻 時の鐘

時の鐘(さいたま市岩槻区本町6-2-28)

 東武アーバンパークライン(野田線)「岩槻駅」より徒歩10分

 

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いろはかるた 『 よ 』 遷喬館

歴史と人形のまち岩槻 児玉南柯による私塾 遷喬館

連日台風10号による豪雨によりました多大な被害がありましたことは、ニュース等で知りました。

被災されました多くの方々には心からお見舞いを申し上げます。

一日も早くご復興なさいますようお祈り申し上げます。

岩槻を表現する言葉に「岩槻にすぎたるものが二つあり、児玉南柯と時歴史と人形のまち岩槻 遷喬館の鐘」があります。

『児玉南柯』は遷喬館という私塾を開き子弟の教育に力を注ぎました。

『時の鐘』は、1671年岩槻城主阿部正春が渋江口に設置し、後に改鋳を経て現在に伝わるものです。

 

埼玉県さいたま市岩槻区本町4丁目8−9

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いろはかるた 『 ち 』  千倉 元順碑

歴史と人形のまち岩槻  千倉 元順碑

南千倉海岸にある元順号遭難救助の碑

千葉県安房郡千倉町(現・南房総市)1981年友好都市提携

安永9年(1780)に当時岩槻藩領であった千葉県千倉へ清国の舟が漂着した事件をその処理に郡奉行として携わった南柯の業績を物語る伝説

浄安寺のちご桜

江戸時代、岩槻藩主に仕えた儒学者の児玉南柯は多くの著作などをのこしています。

そのうち南柯が書いた書物版木が菩提寺の 浄安寺に保存されています。

 

浄安寺の境内には大きなしだれ桜がありました。

その花が咲くころには、ほかにたとえようもないほどの美しさだったと言われています。

桜のかたわらには寺の鐘撞きかねつき堂があり、浄念じょうねんという名18・9歳になる小坊主が毎日金を撞いていました。

ある日のこと、浄念が金を撞き終えて堂から降りてくると、桜の花の下に美しい少女が立っていました。

次の日、また次の日も、少女が花の下に立って浄念に微笑みかけているのです。

浄念は朝のくるのが楽しみでなりませんでした。

この少女の名を妙といい、二人はだんだん親しくなっていきました。

このころ児玉南柯は『漂客紀事ひょうきゃくきじ』という本を書き上げて殿様のお目にかけたところ、殿様はたいそう良いできばえだとほめたたえ「さっそく版を起こして人々に読ませなさい」と南柯に言いました。

しかし南柯は「版木になる桜の木がないので困っています」と殿様に申し上げました。

すると殿様は「桜か・・・・・・。あるある、浄安寺の境内にある大きなしだれ桜がいい。住職に話しなさい」と言いました。

「でも、あのように美しい花の咲く桜を切ってしまっては寺の風情にかかわります」と南柯が申し上げると殿さまは「いやいや、よろしい。先生の学問のためには桜も喜んで犠牲ななってくれよう。天下の名文を埋もれさせることはできない」

浄安寺の住職もこの話を聞き、南柯先生のためであるからぜひお役に立ててほしいと、大きなしだれ桜の木を提供しようと申し出ました。

桜を切り倒す日になりました。妊婦がおおきなのこぎりでその根元を切り始めると、驚いたことに真っ赤なおかくずが血潮のようにあふれ出しました。

それだけではありません。桜は、のこぎりを動かすたびに泣くように、訴えるように、叫ぶように、まるで生き物を殺生するような恐ろしい響きをたてて切られていったのです。

その嫁のことです。息苦しくてなかなか寝付かれない浄念がふと障子を見ると、あの妙の姿が幻のように障子に映っているではありませんか。

「浄念さま、長らく深いお情けをいただきましたが、もうお会いすることができません。実は、私は桜精なのでございます。

南柯先生の版木になるために切られましたので、この世から消えなければなりません。お名残りおしゅうございますが、これでお別れいたします。と言い残してすーっと消えてしまいました。

浄念は妙の話を聞き、驚きのあまり気を失って寺を出て行き、いずこかへと姿を消してしまいました。

その後、真夜中になると誰もいないのに鐘楼の鐘が悲しい響きを立てて鳴るようになったということです。

< 資料抜粋 いわつき郷土文庫 第2集 岩槻の伝説 岩槻市教育委員会 >

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いろはかるた 『 れ 』  十三重の塔 (華林山 慈恩寺)

歴史と人形のまち岩槻 十三重の塔

玄奘三蔵霊骨塔 慈恩寺

玄奘三蔵霊骨塔

境内の十三重霊骨塔には、中国の古典『西遊記』でおなじみの三蔵法師玄奘の遺骨が分骨され、安置されています。

西遊記(孫悟空物語)で知られる三蔵法師(玄奘)は、西暦602年中国に生まれ、経典を求めて、天竺(インド)を志し幾多の辛苦を克服して、17年に亘って仏典の蒐集研鑽に励み、しかも帰国後63歳で遷化されるまでに、大般若経(600巻)等千三百余巻の経典を訳した。

その行跡は、中国日本佛教史上に不滅の光りを放つ不世出の高僧である。

 さいたま市岩槻区慈恩寺139 華林山 慈恩寺

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