鴛鴦(おしどり)
雄を鴛(えん)、雌を鴦(おう)といいます。
鳥類の中で鶴につぐ吉祥文様。
鴛鴦は雄雌が仲がとても良く常に一緒にいることから夫婦和合に例えられています。
(岩槻工業団地内)
赤ちゃん授乳室完備
鴛鴦(おしどり)
雄を鴛(えん)、雌を鴦(おう)といいます。
鳥類の中で鶴につぐ吉祥文様。
鴛鴦は雄雌が仲がとても良く常に一緒にいることから夫婦和合に例えられています。
八月も今日で終わります。
明日は九月一日で立春から数えて210日目に当たります。
この頃は風雨の激しい日とされ、台風が日本にやってくるころとされています。
ところで、当店の駐車場の一角に雀のために小鳥のエサを蒔いておくのですが、ここのところ、さっぱり雀たちは姿を見せません。
稲が熟した穂を垂れる様子からみて、雀たちは稲の穂をついばんでいるのだろうか。
お米に感謝をして美味しくいただきま~す。
古今雛
衣裳に金糸、色糸を使って鳳凰薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子を用いて色彩を豊か
座雛が技術的に完成の域に達したと見られるのは次郎左衛門雛でしょう。
延享(1744年)につくられたもので、京都の岡田性菱屋次郎左衛門の創案によります。
次郎左衛門雛の特徴は、面長に描いた首を整った曲線でまとめ、顔は引目かぎ鼻の典雅な筆で全体に清新な味を表現しています。
男雛は、黒袍に、くぼみに霞の紋が浮織になっている袴をつけています。
女雛は、五衣(いつつぎぬ)・唐衣(からぎぬ)に裳(もすそ)をはいています。
雛人形の中でも佳作の部に属しているといわれ次郎左衛門雛の流行は圧倒的に江戸の人気を独占しました。
しかし宝暦九年(1759年)江戸が京都の移入を禁止したため、享の菱屋(次郎左衛門)、かぎやの江戸進出となります。
宝暦末に菱屋が江戸へ進出して以来、次郎左衛門雛は、明和、安永より天明を経て、寛政末年まで、およそ三十余年の間に、すっかり江戸化してしまったと見られます。
次郎左衛門雛の衰退は、京都に対抗する江戸人の義慣と見る向きもありますが、やはり江戸人の好みにあった江戸雛として、古今雛が登場するに及んで、全く姿を消しました。
古今雛は、明和(1764年)年末に原舟月の手によってつくられました。
古今雛が従来の雛と違う点だけをとりあげますと、衣裳に金糸、色糸を使って鳳凰薬玉の縫紋を加工したり、袖に紅綸子を用いて色彩を豊かにしたことと、二畳台を設けて雛を据えていること、頭が写生的に精妙を極めた点などがあります。
なかでも画期的な技巧は、原舟月が山車の人形の製作者だったところから、雛の両眼に玻璃玉(はりだま)を嵌め込んだことといわれます。
それから以降の雛は多く古今雛の技法を取り入れてつくられています。
宝鏡寺
〒602-0072 京都市上京区寺之内通堀川東入ル百々町547
江戸の中期まて、雛人形の工作舎は殆ど京都で占められていたことは前にも書きましたが京都の江戸移入が禁止されてからは、江戸は江戸、京都は京都で作られているようです。
次郎左衛門雛より少し遅れて、京都には山科雛、高倉雛が貴族階級に限られ飾られていました。
京都今出川堀川に宝鏡寺という尼寺があります。
この地では俗に人形寺と呼ばれしられています。
この寺は厄650年前の光厳天皇(1331年)の皇女華林恵厳禅尼開山により臨済宗の門跡寺院てあり、中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を今に伝える位(くらい)高いお寺です。
歴代皇女方が出家入山されたところから「百々(どど)御所」とも呼ばれています。
皇女方が入寺されているため、おひな祭りのたびに御所から人形が贈られて、いつの頃からか人形寺として名高くなり、由緒ある人形が数多く保存されています。
皇女和の宮さまもたびたびこのお寺へお成りになり、桂御殿のご普請中はこの寝殿にお住いになられました。
和の宮さまおかくれの後、宝鏡寺へ御遺品としてご愛用品や絵巻物など下賜され今も保存されているのは、こんなゆかりからでしょう。
この寺では年二回春と秋に新古人形の名品の展示の一般公開がございます。
春の展示には雛人形を中心に飾られます。
貝原益軒の「日本歳時記」にのる雛遊の図
立雛・座雛を対等に一畳台に飾られている。
菱餅らしきものが三宝に載せられ、御神酒や重箱、魚などが供えられている。
雛のかたちは、立雛と座雛に分類されます。
立雛は主として紙でつくられたので、一名紙雛とも呼ばれます。
立雛の方が歴史は古く、かたちから推察しても天児(あまがつ)、婢子からからきた男女一対の雛人形のようにみえます。
座雛は寛永(1624年)以後につくられたもので、抽象的な立雛に比べて写実的な彩りにつつまれています。
面白いのは、上巳の節句、雛遊と、雛の対象が貴族、武家にとどまっていた頃は立雛で、それが武家から庶民の手に移って、庶民の創造から生まれたのが座雛であるということです。
しかし、座雛がつくられてすぐに立雛がなくなったわけではなく享保(1716年)頃までは立雛と座雛は対等に飾られています。
そして享保以降は座雛が主、立雛が従となり次第に衰微をたどります。
ジャンボ雛段
おひなさま十五人がそのままのお姿です。
小雨の降る中に岩槻まつりが開催されました。
岩槻まつり恒例の黒奴行列・人形仮装パレード、ジャンボ雛段はもちろん大勢の見物
で賑わいました。
お子様の仮装はとっても可愛いです。
雛人形の衣装 亀甲繋ぎ文様(姫の表着)
日本の文様は基本の一つの単位の文様を変形したり、組み合わせたりして多くの文様を生み出した。
亀甲・七宝を一つの単位として繋ぎ合わせ平面に充填する文様。
また、上下に連ねて縞模様を構成する。
久伊豆神社
埼玉県さいたま市岩槻区宮町2丁目6−55
夏越しの風鈴(なごしのふうりん)一二三の風鈴[ひふみのふうりん]
鈴の音には、罪穢れを祓い、身を清めて神を迎える音といわれています。
夏の風物詩・風鈴の音色をくぐることで心身を清める意味があります。
この浄めの風鈴をくぐり、『いち・にの・さん』と声をあげて、良い一日のスタートを切ってください。
今も去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。
その後相州鎌倉扇ケ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の祭城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。
江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿寄進有に帰し、現社殿は、その後氏子崇拝者の誠意により再建されたものである。
現在神域は次第に整い、社域はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている。
岩槻城址公園内で撮影されたカワセミ
暦では『立秋』を過ぎていますが、まだまだ暑いが続いています。
健やかに残暑を乗り超え、お元気にして下さい。
カワセミは青い宝石といわれるように美しい羽根を持つ華麗な鳥です。
清流に住むといわれていますが、岩槻城址公園内にある池でも姿を見ることができます。
多くの人たちの憩いの場ともなっています。
このカワセミの写真はこの城址公園で撮影されたものをいただいたものです。
藤立涌文様
水蒸気がゆらゆらとたち涌いて登る様子を文様にしたもの。
平安時代以降は、波形の曲線が膨らんだところに、雲・波・藤を入れた雲立涌・波立
涌・藤立涌は有職文様として使われる。
男子の鮑指貫、女子の五衣の織文様に用いられる。
華やかな振袖にも立涌文を入れて豪華さを出しているようです。